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2008.08.06 *Wed

8月6日の想い

1945年8月6日。広島に原子爆弾が投下された日です。

63年の歳月は多くの物事を忘却の彼方へ押しやります。竹島の帰属を載せるくらいなら広島・長崎をもっと教育の俎上に載せるべきと思う私です。戦後生まれの首相が露呈したのは、自らの記憶にない歴史を国民の記憶として継承することに対する意識の低さでありました。テレビの特番も少なくなってしまい、自分が子どものころとずいぶんちがってきたなという気がします。子どものころ、朝の連ドラといえば空襲シーンが付き物でした。

そんな今日の話題で、記憶に留めておきたい新聞記事を転載しておきます。

原爆開発の女性科学者、初めて広島訪問

 物理学者として米国の原爆開発にかかわり、戦後中国に渡ったジョアン・ヒントンさん(86)が原爆投下から63年を前にした5日、初めて広島市を訪れ、原爆ドームを見学した。科学者の道を捨て、北京郊外で酪農を続けながら、米国への書簡などで「原爆投下は人類への犯罪」というメッセージを発し続けてきた。ヒントンさんは6日、被爆者と会い、数奇な半生を振り返り、原爆への思いを語ることにしている。

 米国の大学院で物理学を研究していた1944年から、原爆開発のための「マンハッタン計画」に参加し、ニューメキシコ州の施設で研究に携わった。上司は「おもちゃを作る」と言っていたが、指紋をとられ、研究内容は口外しないよう命じられた。

 広島、長崎に投下されたことは新聞で知った。地上で何が起きたかは想像できた。しばらくして、研究所内の部屋に集められ、軍が被爆地で撮影した映像や人の手の影が写った石などを見せられた。「威力を見せつけるための兵器で、まさか市民の上に落とすとは思わなかった」。研究所の同僚も怒っていた。

 終戦から間もなく、仲間とともにワシントンの連邦政府を訪れ、原爆投下に抗議した。自責の念にかられ、悩んだ末に物理学者の道を断ち、48年、上海に渡った。「粗末な食事と素朴な武器で日本に勝った中国人民に興味があった」とそのわけを明かす。

 米国内では中国の核開発への協力を疑われ「逃げた原爆スパイ」と話題になったこともあった。中国は64年に初の核実験に踏み切ったが、ヒントンさんは「協力を頼まれたことはない」と明確に否定している。

 騒ぎをよそに中国で酪農に従事していた米国人男性と結婚。全米科学者連盟などに反戦を呼びかけながら、今は乳牛約300頭を飼って暮らす。長男(55)には「和平」という中国名をつけた。

 米国人作家パール・バックがマンハッタン計画を題材に59年に著した小説(邦訳「神の火を制御せよ」)の登場人物と生涯が似ている点もあり、邦訳を出版した関係者らの招きで来日が実現した。

 ヒントンさんはこの日、初めて訪れた原爆ドームをあおぎ見て「ひどい」とつぶやき、あとは無言になった。被爆63年の6日に予定している被爆者との面会について「『ヒロシマ』で私の人生もすべて変わった。なぜ、私が中国へ行ったのか、すべて話したい」と語った。(浅倉拓也)
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COMMENT : 2  TRACKBACK : 0  [EDIT] [TOP]

COMMENT

「なぜ、私が中国へ行ったのか、すべて話したい」
・・・このお話が文字に起こされたら、是非ご紹介下さいね。
心待ちにしたいと思います。
2008/08/07(木) 23:29:09 | URL | ken #- [Edit
う~ん、なんか続報ないみたいなんですよね。聞きたいです。
2008/08/09(土) 10:29:58 | URL | キンキン@ダイコク堂 #lUPQEYyE [Edit

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