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キンキン@ダイコク堂

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たまご
今日は建国記念日。
だからというわけでもないのですが、スキヤキ食べましたよスキヤキ。

で、たまご。

ひょろながい。


ん?なんかひょろ長い。これはもしかして…。

続きを読む >>
オトナノスナバ | 20:10:38 | Trackback(0) | Comments(5)
蘇民祭のポスターに思うこと。
昨年末頃、掲示板で白頭庵さん・元斎さんという哲学者と言葉を交わしまして、そのとき、「参照枠としての人文科学」という話が出てきました。社会や医療やさまざまな人間の営みに問題が生じたとき、なにかぽっと有益な示唆を与えることが哲学には可能である、と私は思いますし、そのためには「思想と実践と制度とを往還する回路を作ること」が必要ではないか、と白頭庵さんはおっしゃいました。

と思っていましたら、先日、こんな記事を見かけました。

探偵ファイル〜蘇民祭

平素おちゃらけた記事の多い「探偵ファイル」ですが(蘇民祭問題はどのメディアも最終的にギャグとして扱ってましたね)、これはなかなか骨のある記事であったように思います。この哲学者氏の意見をダイジェストしますと、

この件では不快とセクハラを直結させている点に議論の短絡があり、それがより重要な問題です。この二つが重なる場合もありますが、そうではないこともあるからです。仮に今回の例が不快の問題に該当すると判断されても、それが直ちにセクハラに当たるとは言えません。

なぜこの違い(「不快」と「セクハラ」の違い)が生じるかというと、セクハラは「不快」にとどまらず、「危害」もしくはそれに近いものに至ることも含む概念だからです。この二つをきちんと区別して論じないと、危うい議論になるでしょう。当然、あらゆるケースに適用可能な区別があるわけではないですが、個々の事例を判断する時に、こういう区別を念頭に置いておくことが必要です。


となります。

なるほど、この両者をわきまえることは、公共の場におけるふるまいというものを考えるうえできわめて重要な発想であると感じました。「セクハラ」という言葉にすべてを押しつけてJRは責任回避をしたのだ、と私は思っていますが、そのような責任回避は何かを生み出さないばかりでなく、使いようによってはきわめて危険な武器ともなる。たとえば政治団体が抗議をして、参加者に危害を及ぼすかも知れないからという理由でジェンダー問題のシンポジウムや日教組の集会ができなくなったり、つごうのいい利用者の声ばかりをとりあげて道路工事を発注したり、といった社会上のさまざまな隠れ蓑と方便とがあるわけです。上記の記事は、というより倫理学者氏の意見は、そういう社会実態の改善や対処になにか有益なヒントを与えてくれているなあと思いました。そしてこういうときに、「そうだ、哲学者に相談してみよう!」という行動に至った記者氏の発想も好ましく感じました。

一方、蘇民祭のポスターについてはもうちょっと別のことも考えなければならないだろうという気もします。それは、

蘇民祭にポスターなんて必要なの?

ということです。

駅に掲示するポスターとは宣伝媒体です。ポスターを作って観客を呼び、町おこしにつなげたいわけです。だとしたら、観光客が見て不快に感じるポスターはあまり良いポスターとはいえないんじゃないか、ということです。

これは、先日合ったナマハゲの痴漢騒動にも共通することかも知れません。ナマハゲはホテルの女湯に押し入って女性の体に触ったから問題になったわけですが、女性の体に触るというのは昔ながらの風習ではあるていど有りだったとも言われています。だとすればこれが問題となったのは、ナマハゲが「ホテル」に入り、「観光客」に触ったからではないかな、と思います。

つまりナマハゲは「ホテル」に入って「観光客」と接点を持った時点で「鬼」ではなくなり、「観光資源」として「消費者」に接している、そのことをナマハゲ氏が失念した、そのことが問題だったのではないでしょうか。

ポスターを作り、観光客を誘致すれば「神事」は「観光資源」になります。当然のことながらそれを見に来る人は「消費者」というカテゴリーに押し込まれることになります。そうしたら、裸で暴れたり、ナマハゲの中の人と参拝者の間にはお祭りという娯楽の「提供者」と「消費者」という線引きがなされることになる。

本当に恐ろしいのはナマハゲや胸毛褌のおっさんではなく、すべてを「消費者」というカテゴリーに押し込み、金銭換算の対象としてしまう風潮なのかも知れないなあと思います。

翻って思うに、大学で行われる「授業評価アンケート」。結果が出たときの個人的な感情はさておき(あ、私そんなに悪くは書かれませんです。一応いいわけまで)、学生が意見を言えるというメリットはあるものの、学生を「消費者」の枠に押し込めようと言う感じもするんですよね。こういう距離の取り方には、主体的な「市民」であるという意識を摘み取るデメリットもあるんじゃないかな、という気がします。かつての学生運動が自分の所属する大学に対する、大学の一員としての異議申し立てだったとしたら、どちらに主体性があるかはいうまでもないでしょう。

「ご意見は真摯に受け止めました」というお役所用語がありますが、地方自治体の行政に過度の「お客様満足主義」を導入するのも、同様のデメリットがあると思います。ひょっとして、こうやって「敬して遠ざけること」が行政や大学の消費者主義導入の狙いなのかも知れません。

「市民」という概念と、「消費者」という概念と。
これまたじっくりと哲学の叡智をうかがいたいところです。

ケンケンナントカ | 02:44:43 | Trackback(0) | Comments(4)