投稿日:2008-07-01 Tue
こんな記事を目にしました。■『蟹工船』を読みつつプロレタリアートを考えてみた
http://r25.jp/magazine/ranking_review/10006000/1112008062615.html
--以下引用
「プロレタリア文学」っていうと難しく感じるけど、作中の人物が言うには、「あなた方、貧乏。だからあなた方、プロレタリアート」ということになるそう。
つまり「プロレタリア文学」とは、言いかえると「貧乏文学」ってことになるのかも。そんな小説が売れちゃうのが今の社会か…。でもなんだかなぁ、やるせない。
--以上引用
あんまり人の悪口は言いたくないんですが、これはちょっと。。。
「プロレタリア文学」が「貧乏文学」なら、昭和初期の私小説なんて、井伏鱒二・太宰治・嘉村磯多・宇野浩二、、、み〜んな「プロレタリア文学」ということになってしまいます。
文学史の教科書を開くまでもなく、「プロレタリア文学」の本質は「貧乏」にはありません。善良な人間に「貧乏」を強いる構造を「帝国主義」や「資本主義」に求め、それに対抗してゆくために「団結」と「闘争」を促すのが「プロレタリア文学」の本質(であり、当時の共産党の方針)であるわけです。
そこを読み飛ばして「プロレタリア文学」を「貧乏文学」などと語るのは論理のすり替え以前の代物。この筆者が字が読めないか、労働者が目覚め、ストやデモが頻発する社会を望んでいないからか、どちらかでなんではないかと思います。たぶん前者でしょう。
もっときつく言えば、この「団結」なり「闘争」なりに踏み込まずに語られる「蟹工船」ブームの議論はすべてうそっぱちであり、まやかしであるといえます。反資本主義の文学が突如として資本主義的商品価値を持ったことに対する意義と矛盾とを自己批判的に問い直す契機がなければ、このブームは皮相に終わってしまいます。そして、ブームは、だいたいそんな風にして陳腐化し、終息してゆくものです。
いま私たちが「蟹工船」から汲み取るべきは「団結」なり「連帯」であると考えます。現代社会における個人は、正体の見えない巨大な資本の力の前に、誰もが孤独でかつ個性の稀薄な「消費者」(「労働者」である前に)である。ここから「個性」を回復し、さらに「連帯」を通して「人間の弧」を形成してゆくこと。
その意義は、「蟹工船」や同時収録の「党生活者」から十分に読みとれると思うんですけどねえ。。。
以上、あまり建設的にはみえないがそれなりに建設的なことを言ったつもりの文学カテゴリでありました。
投稿日:2006-11-13 Mon
久しぶりのブンガクカテゴリ(情けね〜)。このブログにもリンクを貼らせてもらっているガメラさんの「英語教育の哲学的研究」に紹介されていた、内田樹さんのブログより。あんまり頭がまとまらないのでくどくどと論評は控えますが、まあちょっとほっとしたというか、やや大げさに言えば救われたような気がしたのでご紹介。
http://blog.tatsuru.com/2006/11/04_1654.php
どう思います?
「グローバル・スタンダード」なる資本構造が要請する成果主義・能力主義がはびこった結果、今日の日本は日常の些細なレベルに至るまでギスギスした社会に変貌しました。そんな社会への対応に振り回されているのが今日の大学の現状であろうと思いますが、その非人間性の限界がみえてきたといえるかもしれません。「リベラルアーツ」というと軽い感じになってしまいますが、ここは「真理は我等を自由にする」(私はこの言葉を国会図書館の壁で知った)と大上段に構えてみたいところです。
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