投稿日:2008-06-19 Thu
「エコ」という言葉にうさんくささを感じる人が増えているように思います。「エコ」の思想自体を否定するつもりはありませんし、このブログのリンク先でもある「環境を意識した日々」を送ることは、世界人口が50億を超える今日、Co2削減などおおいに有効だと思われます。
しかしながら、「エコ」という言葉を濫用する場合が、ことにテレビCMに増えているように思います。
最悪の一例が、トヨタの「エコ替え」です。
菊池桃子が「この電球、まだ使えるけど(環境に優しいほうに)、替えよう」
というと、
関根勤が「この車、まだ乗れるけど、(環境に優しいほうに)、替えよう」
というCMです。
詭弁ですらない、この論法。なんというか、この頭の悪さをどうしよう。と夕暮れの山路をとぼとぼとうつむいて歩きたくなるほど、むなしく、悲しい気分に襲われるCMです。まちがいなく、近年最低のダメCM。真の地球環境保護、温暖化阻止の取り組みの努力に対する最悪の冒涜として、批判したいと思います。
投稿日:2008-05-01 Thu
別のところに書いた文章ですが、こっちにも転載します。--
本ばっかり買ってる。もともと読書のスピードは遅い方なので、どんどん溜まっていく。でも多分また買う。
ところで出版不況だというが、本が売れない理由に「平均的日本人の日本語リテラシィが落ちているので、本を読まなくなった」ことと、「読むか読まないかわからない本を買わなくなった」のふたつがある。
「平均的日本人のリテラシィが落ちている」こと、これは絶対に間違いない。
大学で文章表現の講義を受け持って10年経つが、日本語の読み書き能力は間違いなく、どんどん落ちている。漢字テストがレベルもどんどん下がっている。以前は「段落の考え方」から始めていた文章表現技術も、いまは「原稿用紙とはなにか」から始めて「「文」を作る」という話に進むようになった。新聞は年々歳々語彙を落としているが、学生のリテラシィの低下はそのペースをはるかに上回る。大学では教材に新聞を使う先生が多いが、学生は付いていけていない、ことに先生は気が付かない。『「おじさん」的思考』のなかで内田樹が書いているが、予備校の調査に寄れば「1年間で1点のペース」で平均点が下がり続けて30年だそうである。それが1999年のエッセイだからいまは更に10点下がっているのだろう(このエッセイ「大学全入時代にむけて」は『下流志向』の原型をなす、非常に優れた文章です)。それは、ブルーカラーとして最低限のリテラシィが備わっていればそれでよいという経済サイドの思惑にそった教育の成果である。
だから本は売れない。作家は売れないとおまんまの食い上げだから語彙レベルを下げ、物語の構造を単純化する。現在その到達点はケータイ小説と言うことになる。評論はさらに売れない。学歴格差社会やプレカリアートや、そういった警国の書はどしどし出版されるが、残念ながらそれを読む層は当事者ではない。
もう一点、「読まない本を買わなくなった」という点について。
最近、たくさんの本を抱えてレジに並ぶ人を見なくなった。それはすなわち、「本を衝動買いする人」が減ったと言うことである。先日、私が「蟹工船」を買った上野の駅ナカ書店で本を手にとってじ〜っとみつめている女性がいらっしゃったので私もその背中をじ〜っと見つめて差しあげたことがあったのだが(当然、背後から「買え、買え」という念を送って差し上げたのである。それにしてもあの本屋、いかに「蟹工船」のカバーがかっこいいとはいえ、よくあんなに平積みで並べたものだ)が、こういう「ジャケ買い」的なノリは徐々に失われている。それは端的に平均的日本人の可処分所得が減っていることが原因であるわけだが、「無駄をなくす」という構造改革的思考の蔓延の中で、不要不急の書籍購入が躊躇された結果にほかならない。
無駄をなくすとき、精神と肉体の健康に関わる事柄から削っていくのが現代のトレンドである。ガソリン税は再値上げしてでも道路工事は止めないが、クラシックコンサートやリハビリ診療報酬はガンガン削る。それを「構造改革」と称して快哉を叫んだ人たちも大勢いるのはいまの衆議院を見ればよく分かる。「構造改革主義の蔓延が出版不況を生んだ」というとおおごとのようだが、まあだいたいそんなところだと思う。
ところで本箱は「読み終えた本の保管庫」であるだけではない。「これから読む本の準備庫」もしくは「自分が関心ある知的事柄を可視化したもの」であるという機能をもつ。これは本に無駄遣いを辞さない覚悟がなければできない。そして「自分が関心ある知的事柄を可視化」することは、知性の涵養に対して効果的な方法である。
構造改革はそういう無駄を省いたので、これからの日本は辛うじて経済水準だけが現状もしくはちょっと下位程度に踏みとどまりずつ、知的水準の低い・単純労働だけが売りのブルーカラー国家になること必定である。いまは中国から研修生を招いたりしているが、じきに日本から単純労働力が輸出されるに違いない。そんな経済大国としての延命措置よりは、心身の健康に無駄遣いをしつつ、栄光ある黄昏を迎えた方が幸せみたいな気がする。
それはともかく、ご飯一食抜いても「いつか読むかも知れない本」を買うくらいの見栄みたいなものがないと大人の知恵は付かんよ、と言いたい。あんパンと牛乳を脇に公園のベンチで読む本は栄養満点の心のごちそうなのである。
投稿日:2008-02-11 Mon
昨年末頃、掲示板で白頭庵さん・元斎さんという哲学者と言葉を交わしまして、そのとき、「参照枠としての人文科学」という話が出てきました。社会や医療やさまざまな人間の営みに問題が生じたとき、なにかぽっと有益な示唆を与えることが哲学には可能である、と私は思いますし、そのためには「思想と実践と制度とを往還する回路を作ること」が必要ではないか、と白頭庵さんはおっしゃいました。と思っていましたら、先日、こんな記事を見かけました。
探偵ファイル〜蘇民祭
平素おちゃらけた記事の多い「探偵ファイル」ですが(蘇民祭問題はどのメディアも最終的にギャグとして扱ってましたね)、これはなかなか骨のある記事であったように思います。この哲学者氏の意見をダイジェストしますと、
この件では不快とセクハラを直結させている点に議論の短絡があり、それがより重要な問題です。この二つが重なる場合もありますが、そうではないこともあるからです。仮に今回の例が不快の問題に該当すると判断されても、それが直ちにセクハラに当たるとは言えません。
なぜこの違い(「不快」と「セクハラ」の違い)が生じるかというと、セクハラは「不快」にとどまらず、「危害」もしくはそれに近いものに至ることも含む概念だからです。この二つをきちんと区別して論じないと、危うい議論になるでしょう。当然、あらゆるケースに適用可能な区別があるわけではないですが、個々の事例を判断する時に、こういう区別を念頭に置いておくことが必要です。
となります。
なるほど、この両者をわきまえることは、公共の場におけるふるまいというものを考えるうえできわめて重要な発想であると感じました。「セクハラ」という言葉にすべてを押しつけてJRは責任回避をしたのだ、と私は思っていますが、そのような責任回避は何かを生み出さないばかりでなく、使いようによってはきわめて危険な武器ともなる。たとえば政治団体が抗議をして、参加者に危害を及ぼすかも知れないからという理由でジェンダー問題のシンポジウムや日教組の集会ができなくなったり、つごうのいい利用者の声ばかりをとりあげて道路工事を発注したり、といった社会上のさまざまな隠れ蓑と方便とがあるわけです。上記の記事は、というより倫理学者氏の意見は、そういう社会実態の改善や対処になにか有益なヒントを与えてくれているなあと思いました。そしてこういうときに、「そうだ、哲学者に相談してみよう!」という行動に至った記者氏の発想も好ましく感じました。
一方、蘇民祭のポスターについてはもうちょっと別のことも考えなければならないだろうという気もします。それは、
蘇民祭にポスターなんて必要なの?
ということです。
駅に掲示するポスターとは宣伝媒体です。ポスターを作って観客を呼び、町おこしにつなげたいわけです。だとしたら、観光客が見て不快に感じるポスターはあまり良いポスターとはいえないんじゃないか、ということです。
これは、先日合ったナマハゲの痴漢騒動にも共通することかも知れません。ナマハゲはホテルの女湯に押し入って女性の体に触ったから問題になったわけですが、女性の体に触るというのは昔ながらの風習ではあるていど有りだったとも言われています。だとすればこれが問題となったのは、ナマハゲが「ホテル」に入り、「観光客」に触ったからではないかな、と思います。
つまりナマハゲは「ホテル」に入って「観光客」と接点を持った時点で「鬼」ではなくなり、「観光資源」として「消費者」に接している、そのことをナマハゲ氏が失念した、そのことが問題だったのではないでしょうか。
ポスターを作り、観光客を誘致すれば「神事」は「観光資源」になります。当然のことながらそれを見に来る人は「消費者」というカテゴリーに押し込まれることになります。そうしたら、裸で暴れたり、ナマハゲの中の人と参拝者の間にはお祭りという娯楽の「提供者」と「消費者」という線引きがなされることになる。
本当に恐ろしいのはナマハゲや胸毛褌のおっさんではなく、すべてを「消費者」というカテゴリーに押し込み、金銭換算の対象としてしまう風潮なのかも知れないなあと思います。
翻って思うに、大学で行われる「授業評価アンケート」。結果が出たときの個人的な感情はさておき(あ、私そんなに悪くは書かれませんです。一応いいわけまで)、学生が意見を言えるというメリットはあるものの、学生を「消費者」の枠に押し込めようと言う感じもするんですよね。こういう距離の取り方には、主体的な「市民」であるという意識を摘み取るデメリットもあるんじゃないかな、という気がします。かつての学生運動が自分の所属する大学に対する、大学の一員としての異議申し立てだったとしたら、どちらに主体性があるかはいうまでもないでしょう。
「ご意見は真摯に受け止めました」というお役所用語がありますが、地方自治体の行政に過度の「お客様満足主義」を導入するのも、同様のデメリットがあると思います。ひょっとして、こうやって「敬して遠ざけること」が行政や大学の消費者主義導入の狙いなのかも知れません。
「市民」という概念と、「消費者」という概念と。
これまたじっくりと哲学の叡智をうかがいたいところです。
投稿日:2008-01-30 Wed
時間がないので手短に意見を述べます。衆議院に対して、ガソリンの暫定税率撤廃・道路特定財源撤廃を争点に、一刻も早い解散総選挙を要求します。
前回の解散総選挙は、郵政民営化を争点とした選挙でした。それは、郵便局を民営化することによって郵便貯金や簡易保険を原資とした財源を断ちきり、利権構造を打破する「改革」を名目に行われた選挙でした。それが選挙の争点となるならば、揮発油税の暫定税率と道路特定財源の撤廃を争点にする事は、その金額や利権構造の規模において、郵政よりはるかにおおきな意義を持つと考えます。
国会のいざこざは所詮コップの中の嵐です。全国の首長の署名などたいしたことではありません。こういう大事な争点においては、解散こそが「民意を聞く」ということだと考えます。
投稿日:2007-12-19 Wed
ふたたび長く放置してしまいました。記事の書き方すら忘れかけてました。情けない。
さていよいよ年の瀬。
来週からは少し時間が取れる(と思う)ので、この一年間を私流に総括してみたいと思います。
題して、「2007年へのレクイエム」。
だって、今年ってもうレクイエムって感じじゃないですかぁ。
(↑今風の言葉遣いを文字にするのは難しい。。。)
世相、地域、芸能、政治、音楽、医療といったあたりの諸々を、まとめてたたっ切ってみたいと思います。
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